や教育学者、哲学者といった人たちも通ってきた道です。自分自身の実践的関心を出発点にしつつ、自分がやり過ごしてしまった問いに先人たちがどのように取り組んでいたのかを残された文献から読み解き........、それと対話..しながら自分なりの見解を確立していくところに、教育哲学の面白さがあります。 以下ではこの教育哲学のアプローチにより、私たちにとって比較的馴染みあると思われる問題について考えていきたいと思います。考察の対象とするのは、「豊かな体験」という誰もが当たり前のように知っている言葉です。死んだ知識の詰め込みだけではなく、生き生きとした豊かな体験が必要だと言われたら、なるほどその通りだと思うことでしょう。ゲームやスマホばかりいじっていないで外でもっと豊かな経験?体験をした方がいいと言われたことがある人もいるかもしれません。しかし、「豊かな体験」とは何なのかを具体的に考え始めると、なかなか厄介です。現実の物事や人間と交わる機会を与えればそれで豊かな体験になるのか。オンラインでの交流は直接の交流体験に比べて豊かでないのか。体験すればそれで何かが身につくのか。オンライン化が急速に進み、オンライン空間が私たちの日常の一部を構成するようになったコロナ以後の社会では、それらの問いはなおさら避けて通れないように思われます。 以下では、私が研究対象としているヴァルター?ベンヤミン(1892-1940)というドイツの思想家による議論を手がかりにしつつ、私たちが「豊かな体験」と考えているものの正体に迫ってみたいと思います。 1.「豊かな体験」とは何か――歴史的背景から考える 教育のなかで私たちはなぜ「豊かな体験」を求めるのでしょうか。また、「豊かな体験」と言うときに私たちは何を考えているのでしょうか。本節では、ある文書の読解を通じて、体験についての私たちの考え(思想)がどのような歴史的な背景のなかで形作られてきたのかを明らかにしていきます。 その文書とは、1996年の中央教育審議会第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について―子供に生きる力とゆとりを―」です。「中央教育審議会」(中教審)というのは、文部科学省が学習指導要領も含め教育政策の方針を打ち出す際、それに関する重要事項について調査?審議してもらうために召集する有識者会議です。そしてその審議の結果を受けて出される提言書
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